『本藩の霊地の最なり』 三国名勝図絵
冠嶽には用明天皇 (聖徳太子御父君)の御代、蘇我馬子は勅願により紀州熊野権現を当山に勧請し、その別当寺として興隆寺が建立されました。
平安時代、阿子丸仙人が天台宗となし、室町時代勅を受け名僧宗寿法印が京都東寺より下るに及んで、真言宗鎭國寺頂峯院(ちんごくじ ちょうぼいん)と改められました。
藩主島津家歴代の信仰も厚く、寺運は大いに高まった方と伝えられます。
この霊山冠嶽のことについては島津家の歴史書である「三国名勝図会」の中でも『本藩の霊地の最なり』と記されています。